「走りながら考えることは大事ですよね? 《戦いながら考える》というのは、戦いのセオリーを完全に無視していると言いますが、経営はスピードが大事なのではないでしょうか?」
先日のコラムを読まれた方から、ご質問メールを頂戴しました。
おっしゃる通り、経営にはスピードが重要だと藤冨も認識しています。
前回のコラムでは、勝てる策を考え尽くすことの重要性をお伝えする際に、孫子の兵法にある「多算は勝ち、少算は勝たづ、而(しか)るを況(いわん)や算無きに於(お)いてをや。」という文脈を紹介しました。
しかし、一方で孫子は「兵は拙速(せっそく)を聞くも、未(いま)だ恒久(こうきゅう)を賭(み)ざるなり」と、短期決戦の重要性も説いています。
情報を重視し熟考はするけど、短期決戦。
戦略はしっかりと企て、勝つイメージは明確に持つが、戦術は状況に合わせて柔軟に変え、勝利を手繰り寄せる。
「《戦いながら考える》というのは、戦いのセオリーを完全に無視している」という表現は、この戦略自体のツメが甘い時に、苦戦したり負け込んだりすることを指しているに過ぎません。
走りながら考えるのは、戦術のこと。
何事かを始める前に決定すべき戦略は、走り出した後には変えられないものなのです。
- 下請け業から脱却して、アクセサリー事業に進出する。
- 業容拡大のため、既存商品をリメイクして、ある特定の新市場を開拓する。
こういった大きな方向性、つまり戦略は一度決めたら後戻りが容易ではありません。
戦略を決め、事業を推進していっても最初から思い通りの成果が出るのは、ごくごく稀なことです。
普通は、当初想定していた打ち手の手応えが薄かったりすることの方が多いもの。
その時に、戦略が間違っているかも?
そんなに売上は立たないのでは?
と、弱気になった瞬間に事業の推進力は弱まってしまいます。
例えば、広告から見込み客を集めようと企てたが、全く反応が取れない。
やっぱり市場はないのか?
と、ここで悩んでいては、必ず負け戦に繋がってしまいます。
テスト営業を仕掛ける。
サンプリングをする。
など、しっかりと市場性を見極めた上で、イケる!という感覚、いえ、もっと強固な信念を持ったうえで、事業に取り組まないと途中ブレブレになって撤退…という羽目になり兼ねません。
ジャストアイディアで事業を始める方もいますが、新規事業が1000に3つの確率でしか成功しないと言われる所以は、この中に大半が含まれているのではないでしょうか。
成功したプロジェクトに携わらせてもらっていると、これが非常に腑に落ちます。
成功するプロジェクトが、戦略が的確であること。
そして、途中いくつか立ちはだかる「壁」を突破する信念があること。
この信念は、間違いなく「この戦略(方向性)は間違っていない」という確信からしか生まれてきません。
織田信長がまだ尾張国統一を果たしたばかりの頃、8倍とも言われるほどの勢力を率いて今川義元が攻め込んできたときのこと。
内通者がいるかも知れないと、重臣たちとの軍議をせず、一人戦略を練ったとされています。
そして、夜が明けた時に、ごく限られた人数で出馬し、今川の本陣に急襲。
見事、今川義元を討ち取ったと言われています。
かの有名な「桶狭間の戦い」ですが、この急襲をかける前夜、信長は「敦盛」を舞ったと言われています。
「敦盛」は平家物語に登場する平 敦盛。
一の谷の合戦で敗れた際に、敗走している最中、敵に見つかり呼び止められたところ、敵に背中は見せまいと馬首を返し立ち向かったが、斬首されてしまった物語の登場人物。
信長は、勝機のない中、敵に背中を見せず負けをも覚悟する、誇り高き姿に感銘を受けたために、この「敦盛」を舞ったと言われていますが、当時の状況を察するにこれは間違いないと私も感じます。
この桶狭間の戦いには、様々な説がありますが、信長の戦略はただ一つ「今川義元本人の首を取ること」だったはずです。
勝つためには、それしかないと覚悟を決めたこと。
この1点に絞られると思います。
あまりの兵力差で侵攻されてきたので、本来は「籠城」という戦略もあったかも知れません。
しかし、籠城よりも、自ら攻めるほうが「勝利の確率は高い!」と判断したのだと思います。
戦況によって、当初抱いていた戦術は、臨機応変に変えたかも知れません。
一説によると、今川の首を取った毛利良勝よりも、今川本人の首を取ることに唯一賛成し、今川本陣の居場所を突き止めた簗田政綱に一番の恩賞を与えたとされています。
それは、戦術よりも、戦略の基軸を守ることに最も貢献したからだと読み取れるのではないでしょうか?
御社では、信念の持てる「戦略」に則って、事業を推進していますか?